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 さても、翌日。
 薬? ちゃんと飲んだって。耳がきこえないのよ。正確に言うと、聞こえにくいのよ。
 薬の効果は、釈然としない。効いてるかって訊かれれば、ふうむ、だし、効いてないのって訊かれても、ふうむ。要は、病は気からってことなんだね。
 でも、こんなテキトーな俺でも、ちょっとしんみりしちゃった。ずっとこのままだったらどうしようって不安もある。それでも、母ちゃんが、めちゃくちゃ取り乱してるの見たら、自分の耳なんかより、母ちゃんが心配になってきちゃってさ。俺が風邪ひいたときなんか、医者につれていかないで、ばあちゃんが言ってたとかなんとか言って、焼いてくっさいネギを首に巻きつけたり、テレビでみたとか言って、くそさっむいのに濡れシーツでぐるぐる巻きにしたりって拷問する母ちゃんだぜ? そりゃ心配にもなるって。「なんとかなるから大丈夫」って、根拠のない強がりも口から出ちゃうって。
 俺って親孝行者だね。幸せになるね。

 もう来ないつもりだったんだけど、って、病院の白い外壁を見上げた。いい天気で、空も、白壁も、眩しくて目をすがめた。
 エスにも、「おばさんとおじさんに心配かけちゃだめだよ」って、昨日のうちにくぎ刺されたし。「ちゃんと学校も行きなね」は、心の中に封印して、母ちゃんに言ったら、「相変わらず、なんて良い子なの」って、いつものようにさめざめ泣いた。エスを、良い子っていう、母ちゃんを俺は誇りに思う。普段は口うるさくて、いちいち腹立たしい母ちゃんだけど、近所の母ちゃん連中がエスの噂話をしてたとき、わざわざ割って入っていって反論してたのを知ってる。「勝手なこと言いふらさないでちょうだい」って怒ってたのを知ってる。
「最近、遊びに来ないけど、エスくんは元気なの? ちゃんとご飯食べてるの? 風邪がはやってるけど大丈夫? 風邪ひいたら、熱だす前にうちに連れてきなさいよ。いいね、わかった?」
 しつこくしつこく訊いてくるたび、俺は、そっけなくあしらうけど、心の中は、じんわりと、あったかくなってる。本当だよ。

 たっぷり薬をもらった。あのヒゲオヤジは一週間分だって言ってたけど、一週間で呑みきれるとは思えないんだけど。
 今から高校に行っても、まだ遅刻ですむ時間帯、木枯らしになりつつある風は、肌の水分を容赦なく奪っていく。自動ドアから、敷地を出るまでの長い距離の間に、ベンチがたくさん並んでいて、パジャマをの上にコートを羽織った入院患者がちらほら座っていた。
 エスは、俺がいないならベースなんてつまんないって言ってたけど、俺もそう。エスがいない学校なんてつまんない。行ったら行ったで、それなりにつるむ友達はそこそこいるけど、それなりの友達と過ごすのは、やっぱり、それなりでしかない。いつかエスにそう言ったら、「じゃあ、一生、俺のそばにいるつもり?」ってくすくす笑われた。
 つまり、学校行きたくない。さぼる。
 そう決めたとたん、歩幅が大きくなる現金な俺の脚をとめたのは、
「迷子の迷子の子猫さん、あなたの――」
 ちょっとハスキーでいて、クリアなソプラノだった。俺の健康な右耳にすうっと溶け込んでくる。聞き覚えがある声だった。声フェチの俺が忘れるわけないでしょ。耳を澄ます。
「名前をきいてもわからない、おうちをきいても――」
 目を凝らして、あたりを見回した。いた。ずっと先の、門のあたりのベンチに座っていた。
 慌てて駆け寄って、はじめてわかった。両隣に子どもが座ってたことに、気づかなかったくらい、その子しか見えていなかった。
 俺は、白い杖を持ったその子にかける言葉を探す。
「やあ。元気?」
 俺ってバカ?

 その子は、それだけでわかってくれたみたい。口を手で押さえてくすくす笑った。
「昨日言ったとおり、怪我はないですよ」
 運命のひとつにカウントしていいよね。だって、一日しか経ってないけど、あのアホみたいな挨拶ひとつで、俺って認識してくれたんだから。
「よく俺だってわかったね」
 かわいい仕草なのよ。うつむきかげんで、首を少し傾ける。
「あなたの声、すごく特徴的だから」
 そんなこと、初めて言われた。同年代では、低い方だとは思うけど、俺ぐらいの声なんて、一般的にはザラでしょ。それよりも――
「きみの声のほうが特徴的だって。俺、好きだよ。すごい好み」
 おっと! 俺ってば大胆!
 その子は、またくすくす笑う。ときめいてる。俺、今、ものすごいときめいてる。
 ときめきついでに、いいこと思いついちゃった。
「ねえ、きみ、うた好き?」


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