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 そんな可愛らしい笑顔に見とれてたら、その子が急にしゃがんで四つん這いになった。矢印だらけの床を手の平でぺたぺたやり始める。
 半ばキョトン気味だった俺だけど、すぐに気づいた。原因は俺の右手にあった。
「ごめん。これ」
 俺もしゃがんでその子に白い杖を握らせた。すごく小さくて、白くて、ふにゃふにゃの手なの。女の子の手ってそんなもんじゃない? なんて思ったら大間違いだから。俺だって、女の子の手ぐらい握ったことあるよ。この子の手はね、格別で、別格で、ズッキューンって胸が撃たれた。ごめん、ズッキューンはちょっと大げさだった。
 そしたら、あのいい笑顔で、「ありがとう」だって。時間が止まったよ。もう、俺、どうしたらいいの? キスすればいいの?
 あわや変質者、ってところで、その子が立ち上がった。変質者になりかけた俺もならって立ち上がる。
 その子は、腰から上半身を折って、ぺこりとおじぎをした。リスみたい。ハムスターでもいい。小動物系ならなんでもいける。網膜に焼きついたぺこりは、この世で一番かわいらしいぺこりだった。
 そして、踵を返して、向こうへ歩いていく。杖で床をコツコツしながらゆっくりと。一歩足を出すたびに、肩までまっすぐのびた髪がかすかに揺れる。それに合わせて、蛍光灯を反射したそのエンジェルリングが絶妙に形を変える。
 その子は、そのままエレベーターを待つ群れの最後尾について、ドアが開くと、その中に消えた。俺は動けなくなった。それ以上、説明のしようがないくらい見とれていた。
 気がついたら、心の中で、「神様ありがとう!」って叫んでた。
 でも、そんな幸せは、長く続かない。俺、失敗しちゃったのね。名前きくの忘れちゃった。

 されど翌日。俺は、とあるライブハウスにいた。
 ――このライブハウスは俺たちRIPOSTEの原点だ。悪いけど、名前は伏せさせてもらうよ。いつかまた、ここでライブやりたい。シークレットライブになっちゃうけどね――
 今日は出ない。というか、出られない。
 ギターがいないのは、知り合いにバーターを頼めば、まあなんとかなる。でも、RIPOSTEは、ロックバントとして致命的だ。ヴォーカルがいないんだから。
「ふああ。帰ろう、アル。出ないんだからいる意味ないでしょ」
 盛大なあくびに拍手。いる意味? 野暮なこと訊くぜ、エスちゃんは。
「なあに言っちゃってんのよ。今、ステージの上でぎゃんぎゃんやってんのは、敵でしょうが。エスは敵前逃亡すんのかよ」
「俺らの現状はバンドにすらなってないでしょ。RIPOSTEは、同じ土俵にすら立ててないの。わかる? ドラマーとベーシストだけでバンドが成り立つっていうんなら話は別だけど」
 今日はずいぶん饒舌じゃんか。
「寂しいこと言わないでよ、エスちゃん。見てみ、あれ。すっげーむかつかね?」
 ステージ上、つい先日までRIPOSTEにいたヴォーカルを指さした。ぎゃんぎゃんうっせーよ、ちくしょ。
「べつに」
 エスはそう言ってあくびをかみ殺す。そして付け足す。
「やっきになるほどの声じゃない。あんなのそのへんにごろごろいる」
 あのね、そういう問題じゃないのよ、わかる?
「あいつ、おれらに見切りつけたってことよ。悔しくないの?」
「べつに」
 ひ、ひどい……。
「アンタ、それでも男!?」
「さあ」
 さあ、って、きみ……。エスは、その細い目を細めて、ぼうっとステージを眺めてる。これね、エスの基本的仕草なの。
「アルさ、なに悔しがってんの。俺らもあいつらも、結局のところ同じでしょ」
 もう、悲しくなってきちゃった。でも、きっちり反論しちゃる。
「リポには俺がいる。エスがいる。だから、RIPOSTEは、日本のてっぺんになる」
 エスは、なにも言わず、そのままステージを見てた。こいつは、俺の意見は否定するけど、俺の夢は絶対に否定しない。肯定もしないんだけど。
「まずは、ウチで唄ってくれる変わり者を探さないと」
 アンタも話すときはこっち見なさい。それと、変わり者でなく、うちで唄える幸運な人、ね。
「って、アルがバンド続ける気があるなら、の話」
 当たり前のこと言わないで。返事するまでもないから、睨んでおいた。
「ふうん。だったら拾っておいで。ウチで唄ってくれる可哀相な人」
 だから、かわいそうな人でなく――
「ひとつ条件」エスは、顎でステージを指す。「アレとくらべものにならないぐらい、とびっきりのヤツ」
 ステージでは、「アレ」がスタンドマイクを振り回してる。
 少しは悔しかったのかしら。他力本願まっさかりのエスが条件つけるなんて。
「そういや、エス。『crater』に声かけられてなかった?」
「かけられた」
「なんて?」
「ウチでベースしない? って」
「ふうん。それで?」
「決まってるでしょ。ベースなんてアルがいなきゃ、つまんない」
 かわいいこと言うじゃない。
 コーヒー飲みてえ、ってつぶやくエスを尻目に、俺もステージに目を向けた。自分に当たっていないスポットライトが、やけにまぶしかった。


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