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「じゃあ、次、喉みせて」
 断りたかったね。俺が、頼まれると断れないの、わかってて言ってるみたいな口ぶりなのよ。
「腫れてもないし、膿んでもない。うん、今度は聴力を調べてみようね」
「はあ」
 あのう、俺、子供じゃないんですけど。ましてや、コドモでもないんですけど。その言いかたイラッとする。やっぱこいつ嫌い。
「で、最近、ストレスになるようなことなんかあった?」
 だってさ。張力の検査とやらをさせられて、もとの実験台みたいなへんてこ椅子に戻っての第一声が、それ。立派にこしらえた、あごヒゲに手をあてて、俺の目を覗きこむ。俺の病状に対しては上の空だったくせに、アナタの興味はそこですか。来るとこ間違えちゃったかな。耳が聞こえなくなったから、耳鼻咽喉科に来たつもりだったんだけど、ここって精神科なの?
「ええまあ。いろいろと」
 さくら色のナース服着たお姉さんにだったら話してもいいけど、このヒゲオヤジに離す気にはなれない。当たり前だろ。
 ようやくこっち見たと思ったら、
「そう」
 のひとこと。どっちにしろ興味ないんじゃん。

「突発性難聴だろうね。おそらく」
 おそらくって、アンタ。ヒゲでも医者でしょ、はっきりなさい。そんなふうにいちゃに言われちゃったら、患者が不安になるってことわからないのかねえ、まったく。
「まあ、症状は軽いようだから、とりあえずは投薬治療でいいでしょう」
 今度は「とりあえず」って言いやがった。こいつ、ひとの耳だと思って。俺の耳は日本を制す耳だってのに。
「今日、明日の二日分、出しておきます。きっちりのんでよ。それで明後日また来て」
 もうやだ。来てやんない。

 耳鼻咽喉科の受付で処方箋もらって、一階の総合受付でそれ出して金払って、そっからまた別窓の受付にお薬取りに向かった。総合病院の中って広いのね。床に矢印が書いてあんの。それ見ながら歩くわけだから、当然、前なんて見ないで歩く。
 そっからがお決まりのパターン、誰かにぶつかった。
「あ! すいません!」
 反射的に謝った。前見て歩いてなかったわけだから、九割は俺が悪い。あとの一割は、広い病院のせい。
 広いスカートをはいた女の子が派手に転んだ。びっくりした。だって、ちょっとぶつかっただけなのよ。起こしてあげようと手を差し伸べたとき、なにかがブーツのつま先に当たった。白い杖だった。
 小学校で習った。『白い杖を持っている人は、目が見えません。親切にしましょう』
 親切どころの騒ぎじゃない。すっ転ばせちゃったんだもん。過去にはこだわらないことで有名な俺だけど、これはちょっとこだわらなきゃまずい。
 杖を持って、女の子の体を抱くようにして、できるだけ優しく立たせる。紳士って呼んでいいよ。
「ごめんね。大丈夫? 怪我ないですか?」
 転ばせたの俺なんだけど。
「大丈夫です」
 立ち上がった女の子は、思ったより背が高かった。頭が、俺の肩口ぐらい。それでもぱっと見、中学生ってかんじのあどけなさがある彼女は、肩ですぱっと切りそろえられた真っ黒なストレートの髪を、うつむきかげんで耳にかけた。
「あなたこそ、お怪我はありませんか?」
 その声にやられちゃった。俺、声フェチなの。すこしハスキーなんだけど、ソプラノでクリアな声質がすこぶる耳に心地よかった。
 これだけで、コアなRIPOSTEファンのみんなは、わかっちゃったんじゃない?
 声にやられちゃったら、顔が見たくなる。
「俺は大丈夫」
 って、自分の頑丈さをアピールしながら顔を覗くけど、やっぱり俯いてる。
 しっかりと閉じたまぶたを縁どるまつげは、かなり長い。一本一本が主張してるみたいにつやつやしてる。高いとはいえないにしても形のいい鼻と、その下のやや小ぶりで、ぷっくりと盛り上がった唇は、ナース服よりきれいなさくら色だ。
 ストライクゾーンのど真ん中に直球でぶち込まれた。あるんだよ、運命って。
「どこいくの? なんだったら俺、転ばせちゃったおわびにつれてったげるよ」
 よくがんばった。心臓がばっくんばっくんいっていて、やっとのことでそこまで言えた。
「ありがとう。でも大丈夫。私ね、ここ、慣れてるの」
 その笑顔がまたいいのよ。ふっくらした唇の端っこをきゅっとあげて、あまり口は開けないの。涙袋って、愛情の証っていうけど、この子、きっと、ものすごい愛情あるよって、そんな笑顔なの。わかるかなあ?


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