壁4


「ヒカル、飲み比べてみろ」 「はい」  指名を受けたヒカルは立ち上がり、教壇に向かった。  教卓に置かれたふたつのコーヒーカップは、まったく同じデザインで中身の色も同じだった。湯気が立っているか、否か、でかろうじて見分けがついた。  ヒカルはまず、湯気が立っていない方――麗佳が物体化したコーヒーを口に含んだ。 「……おいしい」  意図せず感想が口についた。それほどの、上品な苦みと深いコク、舌の上に程よい酸味をのこしてさらりと胃に落ちていく。加えていうなら、鬼教官で名高い坂下が4文字で褒めただけのことはあるうまさだ。  続いてヒカルは、坂下が物体化したコーヒーに口をつける。麗佳の後をついていった香りとまったく同じそれが、湯気にのって高く香る。 「まったく同じです」  温度に違いはあれど、別のカップのものを飲んだとは思えないほど、同じ味だった。 「ヒカル、戻れ。お前らの机に、これと同じものを物体化する。感覚を掴むまで繰り返し物体化してみろ。 ただし、前提条件に『消滅』を加えろよ。俺はお前らが出した大量のコーヒーカップなんぞいらんからな」  坂下によっていっせいに物体化されたコーヒーカップのひとつが、ヒカルの目の前にある。 (ううむ。どうしたものか) 「どうした、ヒカル。とにかくやってみろ。鬼が出たって蛇が出たってかまわないぞ。俺はもう慣れた」  真綿なんぞにくるんでたまるかといわんばかりの針むきだしの嫌味を、坂下はさらりと投下する。  それもそのはずだ。厭味でなく事実なのだ。坂下が言ったのは。 『ワニの剥製を物体化しろ』に対してトラパンツをはいた鬼のマネキンを物体化し、『苺ジャムを物体化しろ』という課題では、教室全体にヘビイチゴが生い茂った。  ヒカルは物体化がとかく苦手なのだ。 (……やってみるか) 「コーヒーだろ、コーヒー。シマ模様の服着たメガネのオッサンとか出すなよ。お前の物体化は、オヤジギャグだからな。処理に困……オイ」 「すいません」  ヒカルの机の下に、しま模様の服着た眼鏡のオッサン人形が体育座りで物体化されていた。 「たしかにそれもコーヒーと同じく、チキュウからの輸入だけれども。カドマカフの子どもも一度は通る道だけれども。『探せ』のクオリティー低すぎだろ、アホ」  モロ見えてんだよ、と坂下は、もううんざりだ、と、片手で額を覆う。 「ったく、お前はあれだけ身体能力が高いのに、どうして物体化はこうもダメなんだ? あ? ウォーリーさんを探したいなんて俺は言ったか? しかも上目づかいにこっち見てるのがすっげー腹立つ。 なにこの、お前に俺がさがせるか? 的な。モロだっつーの、モロ。逆にそのしま模様が目立つんだよ!」  坂下のヒカルに対する説教はまだまだ続く。説教は講義よりも長い。その間に、坂下という教官の説明をしてしまいたいと思う。  坂下シュウ、26歳、独身。  カドマカフ軍部戦闘部隊、通称「黒服」の隊長、階級は少佐、現役戦闘員にして、養成所教官も兼任する。  10歳前後が平均のところをわずか五歳で覚醒、その後、養成所を経て、今に至るまでの約二十年間、最前線にて最年少・最年長記録を塗り替え続ける。  また、その類まれなる身体能力と物体化技術から、数多くの実績を残し、黒スーツにつけきれないほどの勲章を貰い受けている。  少佐の徽章(キショウ)を手に入れたのは六年前、その若さで佐官の位にのぼりつめたのは史上初であり、黒服の佐官は、軍部始まって以来、初の快挙であった。そして、おそらくこれから先も彼のようなコドモは現れることはないだろう。  飾りっけのない気質と、戦闘配備では自らが先頭に立って突っ込んでいくことから、部下から絶大なる信頼を得ている。さらにこれがまた、さらりと整った涼しい顔をしているのが憎い。  唯一にして無二――まさに『非の打ちどころがない』を物体化したような男なのである。 「おまっ、コレ、消えねえじゃねーか! ざけんなよ! こんなけったクソわりいウォーリーさんと相部屋にさす気か! 体育座りで『お帰りなさい』か? 『お帰りなさい』は三つ指着物美女って相場は決まってんだろが!」  と、坂下がヒカルをぶん投げると同時に、授業終了のベルが鳴り響いた。  いつものように大人しく投げられたヒカルは、いつものように壁を蹴り、一回転して着地をおさめる。教室は拍手に包まれる。 「ヒカル……たまにはガッシャーンってなれっつーの。次の授業、覚えてろよ。お前だけ三倍の負荷をかけて訓練させてやる」  そう低く告げると坂下は、「終わり!」と吐き捨てて教室を出て行った。……しま模様の服を着た眼鏡のオッサンを、後ろ手に引きずりながら。


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