壁2


「ヒー、ヒィー」
 制服の裾を引っ張って揺さぶるイリナは驚いているわけではない。ましてや、恐怖におののいているわけでもない。
 呼んでいるのだ。
「その呼び方はよしてください」
 ヒカルは、苦笑いに眉尻を下げながら、黒服に食い込むイリナの小さな指を一本一本広げた。
「返事してくれるまで離さないんだから!」
 くつろいだ指に力がこもる。
「困りましたね」
 栗色のくせ毛をくるんと肩で弾ませて、約二十センチ上に位置するヒカルの目を、潤んだそれで睨み上げる。
 ぷくーっと頬を膨らませたこんな表情は、普通なら果てしなくイラッとするものだが、イリナがやれば、なぜかかわいらしい。
 イリナはトドメだとばかりに、広げ途中のヒカルの手ごと、ぎゅっと握りしめた。
「嫌なものは、嫌なんです」
 苦笑いにほんの少し苛立ちのニュアンスが入ったヒカルの、ぴしっとキマッた黒スーツにしわが寄る。
 黒スーツは、軍部戦闘部隊の制服である。ヒカルが属する、軍部直下軍部養成所戦闘科の男子訓練生もまた然り。
 軍部戦闘部隊が「黒服」と呼ばれているゆえんでもある。
「あーしは、ヒーって呼びたいんだもん……」
 イリナは細い肩をこれみよがしに落とす。ヒカルは、そんなイリナに目を細め、小さくため息をついた。
「愛称なんて必要ないでしょう。ぼくらの呼び名はもう、ひとつしかないんですから」
 数か月前、ファミリーネームも名前に込められた意味もすべて取り上げられた。今ではもう、識別するためだけの便宜的な、ヒカルであり、イリナである。囚人の番号となにも変わらない。一部例外はあるものの、子供からコドモになったコドモのほとんどがそうだ。
「で、でも、ヒー。あーしは――」
「それはただの甘えです。ぼくには必要ありません」
 表情が消えうせたヒカルは、そっと格子戸の外に目をやる。
 高く高くそびえたつ壁が、真っ青な空を半分以上、覆い隠している。
 ヒカルは何度心の中で吐き捨てたかわからない言葉を、今一度吐き捨てる。コドモはコドモとして、残りわずかな時間を突っ走るだけだ。強く吐き捨てる。ただ、それだけだ。
「ったく、あんたたちは一日に何回その辛気臭いやりとりをすりゃ気が済むのよ」
 和ノ宮麗佳は、教室の後ろに立っている二人に近づきながら、長いハニーブラウンの髪を手の甲で、ふぁさりと後ろに押しやった。
「そんなのね、ヒーがヒーで返事してくれるまで!」
「だから、ね、イリナさん。ぼくは愛称で呼ばれるのは嫌なんですって」
「イリナ。あんた、そろそろ懲りなさい。ヒカルもヒカルよ。嫌ならもっとガツンと言わなきゃ、こいつは一生言い続けるわよ」
「ヒーは優しいから、れーちゃんみたいにガツンと言わないよーだ」
 べーっと麗佳に舌を出すイリナの中では、ヒカルに拒否権はないらしい。すでに「ヒー」で定着済みである。
「この殴り倒したくなる衝動は一体何かしら」
「れーちゃん、殴りたかったら殴っておいでよー。あーしには守ってくれる王子様がいるんだから!」
 綺麗に整った顔を怒りで震わせる麗佳を、イリナは、ヒカルに抱き着いて挑発する。
 麗佳とイリナは、生まれたときから、カドマカフ党軍部直下軍部養成所に入所した、今の今に至るまでの付き合いである。
 先の審査にふたりして合格したときは、抱き合って涙した仲なのだが。
「喧嘩するとまた教官にどやされますよ」
 一触即発の空気を漂わせる2人の間にやんわりと割り入るヒカルは、養成所に入ってからの付き合いだ。一年弱、といったところか。
「ほら、王子様……」
 あーはいはい、と呆れる麗佳の傍ら、イリナは両手を組み、潤んだ瞳でヒカルを見上げていた。
 麗佳が辛気臭い、と、こき下ろしたこのやりとりは、本日五回目を数える。
 カドマカフ党軍部に軍人を送り出すこの養成所、初等部では、なじみの光景であり、名物でもある。
 養成所では、年齢に関係なく、入所した年度から各一年、初等部、中等部、高等部として、軍部に送られる。
 つまり、入所から三年後には、一人前のコドモとして、男子はもれなく戦闘員として最前線に駆り出され、女子は製造隊に繰り出されるのだ。
「ほら、チャイム。イリナ、席につきなさい」
 しっしっ、と手を振る麗佳に、イリナはイーっと八重歯をむき出した。
「ヒー。寂しいかもしれないけど、あーしが離れてる間、れーちゃんとオイタしちゃだめだからね!」
 別段、恋人関係にないヒカルに、よくわからない注意を与えて、イリナは二メートルほど離れた席についた。
「ヒカル。あんたも大変な女に好かれちゃったわねえ」
 麗佳は上向きまつ毛の目をにやりと細めて、げんなりしているヒカルを見上げた。
「そんなこと、ないですけど……」
「目、泳いでるわよ」麗佳は歌うように言って、「というか、その気がないならはっきり言ってやりなさいよ。『ぼくはイリナさんが嫌いです』って」
「和ノ宮さん……。それを僕に言わせて、イリナさんがよけい騒ぎ出すのを楽しみたいだけでしょう」
「あら、ばれちゃった? あの子の逆恨み面白いのに」
「級友としては好きなんですけどね」
「ま、イリナに好かれちゃったのが運の尽きよ。あの子に新しい王子様が現れるまで頑張りなさいな」
 ふう、と息をついて、ヒカルは席に着く。
 運の尽き。
 尽きるほどの運なんて、もって生まれてこなかったはずなんだけど。


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