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「うん」と言ったきり、ナオは、しばし固まって、「えーと、名前きいてなかった」
 小首を傾げた。しつこいようだけど、かわいい。
 ナオの名前訊きそびれたり、自分の名前言いそびれたり、俺ってなんなの? バカなの?
 自分のバカさかげんに打ちひしがれていたら、茶髪の人が、からからと笑った。
「ナオ最高。名前も知らない男の子をうちに連れてきちゃうんだ」
 ……名乗りもせず乗り込んでごめんなさい。
 茶髪の人は、ソファーに寝そべって脚をばたつかせる。俺が立っているところからは、ソファーの背もたれしか見えないけど、ばたばたした足がチラチラ見える。
 そっちに目がいかないように眼球に力を入れて、簡単に自己紹介をした。もちろん、アルって呼んでくださいって付け加えた。
「それじゃ、アル君。こっちにおいで」
 って、茶髪の人、にやあって笑うのね。すっごフェロモンで、俺、鼻血出してないかなって、鼻の下触って確認しちゃった。
 ソファーに座ると、お母さんがあったかいお茶を持ってきてくれた。俺から少し離れた隣にナオが、向かいにお母さんと茶髪の人が座って、しばし談笑した。
 なんと、この茶髪の人、ナオのお姉さんだったの。ナオの家でくつろいでたんだから、よくよく考えれば当たり前なんだけど、ナオともお母さんともぜんぜん似てないのよ。複雑な事情でもあんのかな。
「名前も明かさずにうちにまで押しかけちゃうなんて、どんな事情なんでしょうね」
 だって。お姉さん。ナオ家の事情に思いを馳せてたら、逆にこっちの事情訊かれちゃった。ちょっと違うんだって。明かさなかったんじゃなくて、明かすタイミングを逃しちゃったんだって。
 お姉さんが、また、にやあって笑う。ミニスカートから、むっちりした脚が伸びてて、それをわざとらしく組み替えるの。いやらしくみせつけるようなかんじで。
「ナオさんとバンドやりたいんです」
 こういうときは、シンプルにザクッといったほうがいい。――と思って言ってはみたけど失敗した。お母さんが、目を見開いて固まっちゃった。
「やっぱりね」
 って、ちょっと得意げにお姉さんが言った。今度は、にんまりしてる。なんだか怖い。
「そういうことじゃないかなって思ってた」
 テ、テレパス? ヒゲオヤジはインチキだったけど、このお姉さんならやりかねない。だって、フェロモンがすごいんだもん。
 でも。一応訊いてみる。
「どうしてですか?」
「だって、きみ、『RIPOSTE』のアル君でしょ?」

 お姉さんったら人が悪い。俺を見た瞬間に、ひと目でわかったんだって。だからといって、別段、俺たちのファンってわけではないみたい。そうだよね、この時はまだ、俺、ファンの子たちの顔、全員覚えてたもん。
「すぐそこのライブハウスでバイトしてるの、私」
 だって。まいったね。なにがまいったって、お姉さんに、エス君紹介してって言われちゃったのよ。

 まあ、エスのことは置いておいて、どうにかこうにか説得しなきゃ。
「僕たちには、ナオさんの声が必要なんです! とても魅力的なんです!」
 熱く語る戦法しか思いつかなかった俺の頭、修理に出したい。
 ずっと固まっていたお母さんが、小さく息を吐いて、俺の目をまっすぐ見つめた。一瞬で、俺、お母さんのことが大好きになった。そういう真剣な目だった。
「……えーと、アル君?」
「はい」
「御存じだと思うけれど、ナオは――」
「お母さん、やらせてみたらいいんじゃないの?」
 お母さんのちょっと後ろ向きなこたえを、お姉さんが遮った。
「でも……」
 やっぱり躊躇するお母さんに、もう一度、「お願いします!」って頭を下げようかと思った矢先、
「お母さん、ナオの生き甲斐って、なに? 歌でしょ? それに、どんなことでもやらせてあげたいって言ったの、お母さんじゃない」
 お姉さんの饒舌に、お母さんは黙ってる。嫌な沈黙が落ちる。ナオは俯いていて、表情が読み取れない。
「ナオ」お母さんの声は震えていた。「あなたはどうなの?」
 首を横に振るのを期待してる、そんな震え方だった。
 たっぷり間を開けて、
「私、やりたい」
 って、ナオが言った。とても小さな声だったけれど、力があった。今度はまじでズッキューンってなった。脳内に、おそらくはアドレナリンというものが噴出するのを感じた。
「お願いします! 必ず送り迎えします。ご心配はおかけしません」
 お母さんが少し困ったように笑った。
「ナオをよろしくお願いします」
 そして、深く頭を下げた。俺も慌てて頭を下げる。
 俺、嬉しくて嬉しくて、なんだかこれ、「お嬢さんを僕にください」みたいだな、なんて余計なことまで考えちゃった。
 ああ、ナオとプレイできるんだなって、ナオの歌、一番近くで聴けるんだなって、果てしない嬉しさが込みあげてきたんだ。


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